【報告1】:「専守防衛」を投げ捨て、歯止めなき軍拡に道ひらく 敵基地攻撃兵器の導入に反対する緊急院内集会

3月6日に衆議院議員会館において、「専守防衛」を投げ捨て、歯止めなき軍拡に道ひらく 敵基地攻撃兵器の導入に反対する緊急院内集会を主催しました。講演録を2回にわたりお届けします。

青井未帆さん(学習院大学大学院法務研究科教授)

IMAG14909条というプロジェクト

憲法論との関わりから話したい。どうも危機感があまりないんじゃないか、なにか静かじゃないか、これくらい仕方ないという雰囲気に押されているような気がする。しかし、これは2014年に集団的自衛権の行使を容認したことの一つの重大な帰結であり、形であると思う。こういうことが積み重なっていくうちに、戻れないところまできてしまうのだと思う。集団的自衛権行使はいけないと言い続けるためには、既成事実の積み上げを許してはいけない。
安保法制に基づく防衛出動命令は憲法9条などに反することを前提に、現役陸上自衛官の男性が国を相手に命令に従う義務がないことの確認を求めた裁判で、東京高裁が原告に訴えの利益がないとして却下した地裁判決を取り消し、審理を東京地裁に差し戻した。訴えの利益があるとされている。2014年から2015年に行われたことはまだグレーである。「あれが白ではない」と言い続けるには、こういうところから守っていかないといけない。
2014年に集団的自衛権の行使が容認されたので、憲法に書いてあるからダメという議論は残念ながらあまり有効ではない。このことも正面から受け止める必要がある。「私たちがコミットする平和主義に合致しないからいけない」と言うべきだ。9条の条文があるから平和だったのでは全くなく、9条があり、それに基づく複数の解釈と政策があり、武器輸出三原則のような憲法にも法律にも書いてないが大切なものがあった。だから、おかしいじゃないかと、9条がある中でこうした武器の輸入はおかしいじゃないか、軍需産業について「死の商人」のレッテルを嫌がる空気を私たちが作ってきた。9条を取り囲む形で一つの大きなプロジェクトを私たちは作ってきた。9条とともに、平和に対してコミットする思い、別の言い方をすると高いモラリティが合わさらないと作ってこれなかった。

「平和国家」の変質へ

9条のプロジェクトを支えているものは「論理」と「価値」の側面に分けられるが、前者は2014年以降、傷ついてしまっている。だからこそ、後者の価値の側面の重みと役割が大きくなっている。憲法論にできることは少ないかもしれないが、平和主義を高く掲げる憲法のもとで、憲法の実現として作ってきた文化の重要性を指摘したい。
論理の側面にヒビが入ってきたことをもう少し補足したい。「空母は持てない」とか「攻撃的兵器は持てない」と今も言ってはいる。その前提は、できるのは自国の防衛であり、他国に侵略するとか、他の国のために軍事力を用いることはないということだが、2014年4月の「安保法制懇」報告書には、「世界のどこで起こっても我が国の存立に関わる」との認識を示している。2015年の安保法制国会で「状況が変わったので他国を守ることが我が国を守ることになる」という説明を横畠内閣法制局長官がしており、安倍首相も同じように言っている。
「敵基地攻撃兵器を持てない」というのは、新しい政府見解では自衛の名のもとに「持てる」と説明できるはずだ。今は言葉を濁しているが、ロジックとしては説明可能なところに来てしまっている。敵基地攻撃能力や空母を持つのは、私たちの「平和国家」として、あるべき姿なのか。問題をきちんと明らかにすべきだ。他の国と違う「平和国家」だったのではないか。そこまでやっていいなら、他の国と違う「平和国家」である側面は薄くなる。それでは9条2項のある意味はなくなってしまう。9条のもとでの「平和国家」が論理の面で揺らいでいるからこそ、価値の面で押さえるべきものを押さえないと、既成事実の積み上げですっかり平和国家でない国家になってしまう。
国内のみならず他国にどう思われるかの視点も考えるべきだ。朝鮮半島情勢は大きく見れば対話の動きが強まっているが、「断固対話はお断りする」と発信して、同時に空母の保有を検討したり、長距離巡航ミサイルの予算を計上するのは他の国からどう思われるか。「平和国家」という言葉は他の国から白々しいと思われるのではないか。そこまで含めて、私たちは自画像を変えようとしている。そのことの重さも付言しておきたい。

実力統制の失敗の教訓

次に、私たちはこの問題をどう理解してきたか、平和国家70年というよりもっと長いスパンで考えておきたい。一つ抜けている視点は、実力に関する議論。実力をどう統制するかは明治の開国以来のものすごく重いとても大きな課題だ。それをすごく小さく、「1ミリも変わりません」と矮小化しており、時間的広がりが欠けている。
私たちは明治憲法体制下で軍隊をきちんとコントロールできなかった。しばしば言われる「軍部の独走」。軍隊のコントロールに失敗した遠くない過去がある。考えてみると、天皇制は軍事力に支えられてきたわけではない。数百年というスパンで見るならば、明治維新でも天皇は軍事力で権力を握ったのではなかった。天皇は兵力は持っておらず、薩摩や長州、土佐が持っていた。だから、実力を吸い上げて国軍を作らなければならなかった。農民を徴兵すると下からの民主化が軍隊に入ってきてしまい、民主的軍隊になると困るということで、統帥権を独立させ、参謀本部を設置し、軍人訓戒や軍人勅諭を作り、政治から軍事を独立させてなんとかコントロールしようとした。
しかし、軍部の独走になってしまった。一番悪かったのは統帥権の独立であり、軍部大臣現役武官制であると私たちは一般常識のように知っているが、元々はこれらは政治から引き離したものにするために用いられたものだった。明治憲法より前に存在した実力が議会制民主主義や内閣といった政党政治の及ぶところではなくなってしまい、天皇も、誰もコントロールできなくないものを内に抱え込むことになってしまった。その結果、近代日本の破滅に等しい終わり方を導いてしまった。
だからこそ、憲法9条は明治憲法下であった軍隊に関わる制度をなくした。それは軍事に関する統制に失敗したからだ。明治憲法下の兵役義務、統帥権、軍令、参謀本部・軍令部、軍部大臣現役武官制、戒厳制度、非常大権、編制大権、軍人特例など、軍に関わるたくさんのものをなくしたのが9条だ。敵基地攻撃能力とか長距離巡航ミサイルを持つというのは、まさにそういう話だ。国家の実力としてどこまで持てるのか、どうコントロールするのか、任せていいのか、こういう問題を憲法の中に入れようという空気が強まる中で、問題の大きさを認識すべきだ。

国際法の到達点と9条

9条には国際法の到達地点の編入という側面もある。日本では非常に内向きの議論がなされているが、安全保障の話は国際政治の中でしか起こらない。国内の法秩序に留まってはいない。ここで武力行使の原則違法化というルールをもう一度確認したい。
1928年の不戦条約で戦争を初めて違法化した。でもその後に「戦争」と呼ばない形での武力紛争を止めることができず、我が国もその主体となった。国連憲章は「戦争」という言葉を使っていない。武力行使を原則として違法としている。9条のように完全に武力行使を否定するのではなく、集団安全保障や個別的・集団的自衛権は例外としながらも、原則は戦争を違法とした。9条はこの原則をさらに一歩進めるかたちで国内法秩序に取り込んだ。私たちは憲法9条のもとに軍事ないしは実力を統制してきた。国がとり得る安全保障政策にかなり強い限界を課してきたのが9条だ。それは国際法のスタンダードにも合致するものだったと思う。
憲法9条は1項で、jus ad bellumの話として戦争を放棄しているため、jus in bello(戦時国際法)など必要ないというのが9条の解釈として素直だろう。しかし、政府は武力行使は例外的にし得る場合があると言っているので、実際にはjus in belloの問題が生じている。これは理論的にはかなり説明困難というべきだ。とはいえ、国際法のスタンダードを超えず、国連憲章の体制を破壊することのない限りにおいては、許される範囲だったのだと思う。問題は、国際法のスタンダードを手前勝手な理由で超えたり、国際法のルールを踏みにじってはいけないということだ。
「自衛のため」や「満蒙は日本の生命線」というような、手前勝手な理由で抜け道を作ってはいけない。2014年まではぎりぎり国際法のスタンダードを超えることなく、綱渡りのように動かしてきたと説明することも可能だったろう。しかし、今、国連憲章の想定する平和の維持の方法を無視するかのような発言が相次ぎ、法制度が説明されている。国際法のスタンダードを崩すことに他ならないのではないか。国際法は武力行使は違法としていて、勝手に自衛戦争するのは禁じている。できるのは自衛のための措置で、適法かどうかを決めるのは国際法だ。
理論的に説明の困難な政府解釈はそれ単体では説得力がないが、集団的自衛権を行使できない、敵基地攻撃能力を持てない、攻撃型空母は持てないなどの諸政策が、支えてきたものといえる。他の国から攻められたときに自国の防衛を自衛の措置としてしかしない。それを担保するものがないと他の国は信用しない。単に9条があるだけでなく、「本当にしません」という国家の意志を政策として示さないと他の国にシグナルを送ることにはならない。2014年までは「憲法9条のプロジェクト」の中で、日本は「専守防衛」であると、他国防衛はしないと担保してきた。
自衛隊の評価についてはいろいろとあるが、かつての自衛権発動の3要件のもとで、我が国に対する急迫不正の侵害に際して、他に排除するための適当な手段がないときに、かつ自国領域でのみ必要最小限度の武力行使をする限りにおいて、国際法上、他の国ができることより低い自衛の措置として、違法性を阻却できる余地はあったのではないか。9条が実力の統制に成功してきたと評価できるとしたら、それは9条という条文だけの話ではない。9条全体がプロジェクトとして、論理と価値をつなぎ合わせて作り上げられてきたものだった。

今こそ骨太の議論を

何が起こっているのか。明らかに論理的に破たんした。やってはいけないことをやってしまった。2015年の安保法制国会で示されたのは、「自衛のため」という言葉をすっかり変えてしまったこと。自分たちが「生命線」「存立の危機」だと思うことは何でも入ってしまう危険性ができてしまった。恣意的になされないことを担保する仕組みは設けられなかった。私たちがしてこなかった新たな解釈が取られるようになり、論理の部分では大きく傷ついてしまった。
さらに価値の変質も今進行している。危機感がないというのは、価値に関する話だ。ただ何となくという側面の方が強いのかもしれない。報道や政府の説明は十分に国民に情報を与えていない。国会に改ざんされた文書が提出され、虚偽の答弁がなされるというとんでもない事態が起こっている。議会制民主主義の土台に関わる深刻な事態だ。そういう事態について、まだ十分な情報を国民が得ていない。
よく考えたうえでかつての平和国家をやめようというのではないようだ。熟慮の結果ではない。でもじわりじわりと進んでくるのが価値の変質だ。9条のプロジェクトを支える価値がなくなったらどうなるのか。ある意味で壊すのは簡単だ。考えてみれば、今しかどういう国にしたいかの骨太の議論をする時間はないのではないか。変わってしまったら同じ国を作り上げるのは難しい。
政治状況は非常に流動的だが、3月の自民党大会で改憲の条文案が出るとの話もあり、国会発議も既定路線のように語られている。いよいよもって骨太の議論をするひまはなくなるのかもしれない。戦争は許さない、国のために殺さないし殺されないというところから出発したのに、「人を殺すのも仕方ないよね」となってしまっていいのか。日本にしかできないことがまだまだあるはずだ。
「クリーンハンドで臨める」というのは、かつて外務省が言っていた言葉だ。日本が国際紛争に武力で介入しないと外務省が誇りにしていた時期もある。まだ残っている財産があるうちに、どういう国にしたいのか、まだ選べる選択肢がたくさんあるうちに議論すべきだ。敵基地攻撃兵器や空母の導入は、それを足元から崩してしまう。骨太の議論をできなくするための既成事実の積み上げであり、こういう動きを止めないと、議論することなく別の国に変わってしまう。

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