【報告】亡国の武器輸出~日本版「軍産学複合体」の今 NAJAT 11.15集会

昨年11月15日に開催した「亡国の武器輸出~日本版「軍産学複合体」の今」、学習院大学大学院法務研究科教授、青井未帆さん(憲法学)と軍学共同反対連絡会共同代表の池内了さんにご講演いただきました。

青井さんの講演「9条改憲の動きと武器輸出三原則、それを取り戻す意義」を紹介します。
(池内さんの講演内容はこちら

1. 9条改憲の動き

 まだ今なら元に戻せる状況だ。「武器輸出三原則」を撤廃して「防衛装備移転三原則」に変えた手続きは国民の目を欺くもので正当性がない。「もう終わってしまったこと」「仕方がない」と言ってしまったら終わりだ。「9条のもとで私たちが作ってきた平和国家とはこんなものではない」と言えるかどうか、私たちに懸かっている。
 総選挙が終わり、9条改憲への雰囲気づくりが進んでいる。自民党の9条改憲のたたき台の条文はまだどうなるか分からない。もしかするとこんなに明確には書かれないかもしれない。「加憲」という形で憲法9条に書き加えるという改定が、緊急事態条項よりも先に行われると言われている。9条を前提としたうえでの加憲という方法には大きく分けて2つある。1つは「自衛隊」という言葉を入れないで、実力組織を何らかの形で認める方法。もう1つは「自衛隊」という言葉を入れる方法。自衛隊という言葉を入れる方が憲法的な観点から言えば、ずっと難しい。自衛隊という言葉を入れなければ、賛成する憲法研究者なども出てくるという気もする。だが、自衛隊という言葉が入ると、途端に理論的ハードルが高くなる。
 

9条の解釈と文化

 私たちが持ってきた9条、そのもとでの文化とはどういうものだったか。9条がある「だけ」で平和だったわけではない。9条をめぐる政府解釈は緻密だったと言われるのはなぜか。9条のもとで、軍隊を持つべきじゃない、あるいは武器輸出なんかしない方がいい、という国民の声があったからこそ、9条解釈はそれなりの緻密さを持たざるを得なかった。政府解釈や学説等の解釈が9条というコアの周りにある。そして、それを支えている国民の気持ちがある。
 9条は法の問題だが、完全に法の問題ではない点が重要だ。レジュメで「プロジェクト」という言い方をしているが、9条の文言や解釈、その下での複雑な法体系、そして国民の気持ち、これら全体を指している。軍か軍ではないか、装備や任務とかは他の国の軍隊と同じじゃないかとも指摘されているが、法の観点からすると完全に軍にはなれなかった。そこが重要ではないか。独特な法の仕組みを持つに至り、独特な運用もしてきた。9条の下にあるすべての部分をひっくるめて、この「プロジェクト」は私たちが作ってきた。9条はどういうもので、どうあるべきかについて、私たちが解釈してきたすべてを一体としてとらえるべきだ。

 

「戦争しない」ことへの攻撃

 では、この「プロジェクト」の「根底にある考え方とは何だったのか。「戦争しない」ということだったんじゃないのか。当たり前のように思えるかもしれないが、この部分が今、攻撃されている。戦争しない、国家のために殺さないし、殺させない、殺されないというところから出発していたのではないか。こういう価値観は当然、前の時代の「お国のため」「滅私奉公」「死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」ということを否定するところから出発したはずだ。「加憲」というのは「自衛隊」という言葉を書き込むだけに見えるが、長い目で見ると、この「戦争しない」という価値観をいつのまにか別の価値観で置き換えるということに他ならないはずだ。
 加憲したその瞬間に変わるという話ではないだろう。少しスパンがあるはずだ。2014年の政府解釈を維持する形で憲法「改正」するだろうから、加憲するとすぐに、1項や2項が骨抜きになってしまうというものではないだろう。中途半端な状態がしばらく続くだろう。9条の文言云々という小さな問題ではなく、何を大切に思うのかというレベルでの変更が、そうとは知らされずに行われようとしているのは、何があってもおかしいはずだ。

 

加憲なき無効化も

 具体的に9条が何を意味するのか、どう具体化してきたのかの一つの形として武器の禁輸政策があると考える。武器の禁輸政策を再考することは、加憲をするという議論が本格化する前の今ならば、戦争しないという価値観に大きく引きもどすことに繋がると主張したい。9条の文言が変わらなければいいのではないことに注意を払わなければならない。実際に相当変わってきている。法制の面でいうなら、やろうと思えば相当のことができるはずだ。加憲の試みが仮にうまくいかなくても、実質的にこれから先、大きく変わってしまう可能性がある。文言ではなく価値観が変わってしまうかどうかがポイントなのである。既成事実の積み上げにより実際の運用がどうなっていくかが重要であり、武器輸出のあり様を注目しなければ、仮に文言を守ったとしても、実態として無効化され、掘り崩されるのはあっという間なのかもしれない。
 

2. 武器輸出三原則

 

「モラル・ハイグラウンド」

 武器輸出三原則は9条のプロジェクトの一つだったと考えている。トランプ大統領が赤裸々にも示したように、他の国では、武器輸出は外交上のカードの一枚だ。これをあらかじめ捨てるということを通じて安全保障を図るという、他の国にはない手を打ってきた。だからこそそれは、高い道義性や高い倫理性を必要とする。単に外交戦略上のカードを持たないとするだけで私たちは平和国家をつくることが出来るのか。そこに一定の道義性、倫理性が補完的になければ無理なのではないか。「モラル・ハイグラウンド」と書いたが、まさに猪口邦子さんの言葉がその部分を言い当てている。猪口氏が小型武器軍縮会議の議長になったことを自分で振り返るに、「モラル・ハイグラウンド(道義的に高い位置)に日本が立っているから、議長国でも仕方がない」と思われたんじゃないかと主張されて、「ですから、国の重みはそういうところに出るんだなと思うのです」とおっしゃった(2004年5月13日、日本記者クラブ会報126号)。

 

道徳が支えた9条のプロジェクト

 国の重みとか「モラル・ハイグラウンド」というのは結構難しい話で、法や憲法の世界ではなるべくこういう道徳を取り込まない形で議論を作っていく作法がある。憲法の議論の中で道徳を簡単に持ち出すのは得策ではないし、私も避けてきた。でも、つらつらと考えるに、9条の問題はここの部分抜きには語れないんじゃないかと改めて思っている。あえて道徳的なるものを憲法9条の議論から放逐してしまうのは、一番9条を支えている部分を見ないふりをするに等しいのではないか。「モラル・ハイグラウンド」という言葉が適しているかは置くとしても、道徳的、道義的、倫理的なところの支えなくして、9条のプロジェクトは可能だったのだろうか、可能ではなかったのではないか。その意味で「国の重み」を支える部分に私たちがどこまでコミットするのかという問題ではないか。

 

三原則の曖昧な法的性格

 次に、レジュメに「武器輸出三原則の法的性格」と書いたが、結局それはよくわからないものだったということに注目したい。憲法に三原則は書かれていない。次に、外国為替及び外国貿易法(外為法)という、外国との貿易に関する基本的な法律にも書かれてなかった。それに基づく政令にもなかった。どこに書いてあるかというと別表の運用方針。別表そのものにも書いてなかった。
 憲法上の権利を制約するには、法律に拠らなければならないという大原則がある。「法律の留保」というが、ちょっと上の世代の方だとあまりいいイメージを持っておられないかもしれない。明治憲法のもとで、法律の範囲内でしか人権が保障されなかったというような内容に関して、「法律の留保」という言葉をよく使っていた。でもそれは、逆から見ると、人権を制約するには法律がなくちゃいけないという意味でもある。プラスの言葉とマイナスの言葉、意味が二つある。

憲法に近いルール

 人権を制約するには法律がなくちゃいけないという観点から見ると、もし武器を輸出する権利とか、武器輸出によって利益を得る権利とか、経済的自由の保障に入ってきそうな感じもするが、もしそういうものがあったとするならば、それは法律で制約しなくちゃいけないということになりそうだ。  
 でも、先に見たように、そういう議論はなされなかった。なぜか。少なくともこれまで作ってきた憲法9条のもとでの仕組みは、すごく9条と近いところに武器の禁輸という話を置いているので、輸出する権利がそもそもないと理解してきたとも言えるのではないか。もっとも、法律で制約しなくちゃいけないというところに少し鈍感だった面はもちろんあると思う。昔あった「監獄法」という法律が、監獄の中での喫煙の自由などを法律の根拠なく制約しているなど、鈍いところがあった。
 私としては、もし憲法上の権利として輸出する権利があると当然視されていたら、こんな形で武輸出三原則は存在していなかったろうと強調したいと思う。憲法にも、法律にも、政令にも書いてなく、別表の運用方針に過ぎないけれども、私たちは「国是」としてすごく重要だと考えてきた。翻って見ると、それは憲法と近いところにあるルールだと理解してきたからに他ならない。

 

三原則の「本籍」としての憲法

 実際のところ、武器輸出全面禁止の方針転換には極めて大きな政治的エネルギーが必要とされた。また、少しずつルールが変えられていった際も、少なくとも内閣としての意思決定(内閣官房長官談話)が必要だった。つまり、運用方針に過ぎないのだから勝手に変えられるもの、とは認識されていなかったことにも注意を払っておきたい。
 また、他ならぬ中曽根元首相も、アメリカへの武器技術供与をめぐって武器輸出三原則を緩和させるときに、「内閣法制局が憲法違反だの何だのと言っているが、ノウハウを教えてやるなら憲法違反にならないという私の解釈を教えてやった」、というようなことを自伝に書いている(『中曽根康弘が語る戦後日本外交』)。なるほど、憲法問題としてとらえていたんだと改めて知ることができる。中曽根元首相も憲法問題としてとらえ、内閣法制局もそういう問題として疑義があるとしていた点に注意を払いたい。
 つまり、平和国家としていかにあるべきかという私たちの選択が、三原則を憲法に近いものとして生んだからに他ならない。勝手に時の大臣が運用の指針として持ってきたというお話ではないはずだ。どこに議論の本籍があるのかといえば、憲法だった。偉い人の手柄話はどこまで本当かというのはわからないが、少なくとも憲法規範に近いものとして元首相らに認識されていただろうというのは、すごく重要だと思う。

3. それを取り戻す意義

 

民主党政権による一撃

 もしこのように憲法にすごく近いものとして存在しているならば、それをひっくり返すためにはそれ相応の手続きが必要だったはずだ。表立って議論されてひっくり返すならまだ分かる。しかし、武器輸出三原則がなぜなくなったのか、よく知らない人の方が多いはずだ。
 一番大きな転換は民主党政権の時に起こされた。「原則」と「例外」が逆転されてしまい、実質的に最終的な一撃に近かったが、ほとんど議論されていない。副大臣会合が年の押し迫った頃に行われたので、ほとんど国民に知らせないで行われてしまった。政策転換を正面突破するのではなく、気付かれない方法で少しずつ骨抜きにされていった。自民党政権だから、民主党政権だからということでは必ずしもないことに注意が必要だ。もっと深いレベルで変化が方向付けられていた。
 然るべき時間をかけて重要なことを正面から議論するといったことなく、多くの人に気づかれないところで変えてしまうという手法は、よく使われているが、正攻法ではない。本来は筋が通らないはずである。おかしいものはおかしいと言っていかなければいけない。こういう国民的議論と選択が飛ばされて、国会論戦もなかったことを忘れてはいけない。国会で議論しないというのが最近の大きな特徴だが、国会は言論の府であることに存在意義がある。国会論戦を経ることで、執行・運用における縛りを付けることができる点が重要だ。
 三原則の転換は、正面からの議論がなく、このことを正当性が与えられない理由として私たちは強調しなければならない。三原則は本籍が憲法に近いものとして存在しているなら、きちんとそれを論じるべきだったのに、しなかった。きちんと手続きを踏んでいないし、正当性が到底認められない。

正当性なき撤廃

 「国際紛争等を助長することを回避するという平和国家としての基本理念」という言葉が、これまで枕詞のようにずっと使われてきていたが、今日では「国連憲章を遵守するとの平和国家としての基本理念」という言い方にしかならなくなっている。国連憲章を遵守するというのは、他の国連加盟国と同じことだ。でも、それが日本の「平和国家」の基準だったのか。
 最近では、日米首脳会談で「アメリカから武器を購入すれば、日本はミサイルを撃ち落せる」というトランプ大統領の言葉に、「買います」という安倍首相の判断が呼応して、これから先、さらにビジネスとしての武器輸出が進んでいくであろうことを多くの人に予感させた。ちなみに、トランプ大統領のこの発言を報じる「ワシントンポスト」の記事で、「ロイヤルサイドキック(loyal sidekick)」という言葉が使われていた。日本の新聞だと「忠実な相棒」だったり、IWJさんだと「パシリ」という言葉を使われていたかと思う。「相棒」と「パシリ」では幅があるが、中を見ると「パシリ」に近いところで語られている。今日、モラルという側面が支えてきたと強調したが、ビジネスとして、さらには「ロイヤルサイドキック」を務めるというような国になってしまっていいのか。猪口氏の言葉にあった「国の重み」の意味に照らして考える必要がある。
 武器輸出三原則が憲法に近いものとして存在していた以上、それを変えるには正当性がなくてはいけない。正当性が認められるとは到底言えない。終わったことにはできないし、され得ない。私たちは承認したわけでない、おかしいということはまだまだ十分主張できる。

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