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【報告2】亡国の武器輸出~日本版「軍産学複合体」の今 NAJAT 11.15集会

昨年11月15日に開催した「亡国の武器輸出~日本版「軍産学複合体」の今」、学習院大学大学院法務研究科教授、青井未帆さん(憲法学)と軍学共同反対連絡会共同代表の池内了さんにご講演いただきました。

池内さんの講演「軍学共同の現状と反対運動の課題」を紹介します。
(青井さんの講演内容はこちら

軍学共同とは:科学の軍事化

「軍学共同」とは「軍」である防衛省(自衛隊)と「学」である大学・研究機関とが共同して武器開発等を行うこと。「共同」という言葉を使うといかにも対等な関係のように見えるが、軍つまり防衛装備庁が金を出して、学に研究をやらせるということなので、学を下請けにすると言って過言ではない。これがまさしく今の武器輸出の大きな背景にある。つまり、新たな武器を考案していくことによって、武器輸出を一気に加速させることが考えられる。
現在行われている具体的な軍学共同の事業は、防衛省の技術研究本部、これは防衛装備庁に吸収されたが、それが大学や研究機関との間で「技術交流」を行ってきた。現在、23件にもわたって、防衛装備庁にある5つの研究所と大学・研究機関との間で、協定を結んで技術の情報交換をしている。技術というのは防衛技術、つまり軍事技術。23件にもなり、今後さらに問題にしなければならないが、現状では予算のやり取りはなさそうなので、今のところは注視していくことにしている。
もう一つは、防衛装備庁が行っている「安全保障技術研究推進制度」というもの。まさしく防衛装備庁がお金を出して、大学・研究機関の研究者を軍事研究に動員する制度である。

戦後、「学」は「軍」と一線を画した

前提として言っておかなければいけないのは、日本の学術界は軍と一線を画してきたということ。1949年に日本学術会議が発足したときの決議で、「科学は文化国家ないしは平和国家の基礎である」と明確に打ち出して、その明くる年の1950年の第6回総会で「戦争を目的とする科学の研究には、今後絶対に従わないというわれわれの固い決意を表明する」という決議をあげた。
1967年にも同様の決議をあげている。特に1950年の場合は、今言われた日本国憲法の平和主義の原則をわれわれ学術の世界の人間も守るべきである、その線で研究・教育も行うべきであるということを明確に打ち出した。1967年はもう少し違う状況もあったが、再び「戦争を目的とする科学の研究はこれを絶対に行なわないという決意を表明する」と二度までにわたって決意表明をしている。
この二つの声明・決議は私たち大学にいる研究者は当然にように受け入れ、当たり前になってきていた。私たちの心に刷り込まれてきたと言ってもいい。その状況がこの数年で転換させられつつある。

「軍学共同」の動き

軍学共同の動きが具体化したのは、2013年12月の閣議決定である。そこには「大学・研究機関との連携を強め、防衛にも応用可能な民生技術(デュアルユース技術)の活用に努める」と書かれている。この閣議決定では基本的に安全保障に関わる3つの重要な決定がなされていて、どれにも「デュアルユース」という言葉がある。民生技術つまり大学や研究機関で開発されている技術を軍事に転用する、活用するということ。
これを受けて、様々な動きが一斉に出てきた。防衛装備移転三原則は明くる年に策定され、武器の生産や輸出を常態化する、推し進めていく国家になった。2015年には新宇宙基本計画が出されて、翌2016年には改定され、宇宙の軍事化を進展させることが具体的に出された。例えば、「情報収集衛星」、これはスパイ衛星のことだが、10機体制にする。今まで1兆円ほど使って10機を打ち上げてきた。現実に動いているのは5機だが、常に10機体制で地球全体を監視するということが宇宙基本計画に書かれている。
あるいは準天頂衛星を7機体制にする。「みちびき」というGPS衛星が今年で4機打ち上げられた。車のGPSに便利だという宣伝ばかり流されているが、基本的には軍事利用して、アメリカのGPSを補完するのが大目的。これらが軍と公的研究機関である宇宙航空研究開発機構(JAXA)との間の軍学共同の具体的な表れである。

安全保障技術研究推進制度

そして、2015年に防衛装備庁が「安全保障技術研究推進制度」という長い名前の制度を作り上げた。これは、将来の防衛装備品の開発のための芽出し研究である、要するに種をまいて芽を出すくらいまではやると言う。そこで「基礎研究」、あるいは「基礎技術」ということをやたらに強調している。その中で、有望な課題・研究について防衛省が引き取って、開発し、活用する。つまり、防衛省が装備品として具体的に展開する。だから、最初のアイデアが欲しいというわけだ。
ここで「基礎研究」という言葉がよく使われるので、研究者たちが「基礎研究であれば自由な発想のもとで行われるのではないか」とつい思ってしまう。しかし、官庁用語では基礎研究というのは、「戦略的・要請的な基礎研究」とされ、自由な発想に基づく外部からタガがはめられない研究は「学術研究」と呼んでいる。この「戦略的・要請的」というのは、日本のイノベーションをするための戦略的な方向、あるいはそのイノベーションの要請に合うような研究を基礎研究と呼んでいるのだ。
つまりこの制度では、防衛の装備開発を要請する、あるいは装備を戦略的につくっていくための基礎であるというものである。基礎研究の後に防衛装備庁が取り上げて装備化する流れがあることを押さえておく必要がある。つまりこれも軍事研究の一つだ。2015年度から競争的資金を発足させて公募して、各大学、研究機関、企業が応募して、ものになりそうだと見なされると採択される。具体的には防衛装備庁がテーマを出しているが、ちょっと考えれば装備品としてどう使われるかわかるものを掲げている。

予算の推移

1件について1年で3000万円が3カ年に渡って使える。2015年度に3億円の予算で発足し、2016年度は6億円に倍増し、2017年度には110億円と巨大な予算に膨れ上がった。要するに防衛装備庁は、軍事研究の重要性を位置づけて大きな予算を付けている。自民党の国防部会が後ろからプッシュしている事情もある。
2015年度は応募が109件で、大学が58件もあった。私たちはこれに非常にびっくりした。しかし、2016年度はこれが半分以下になった。大学からは23件に。なぜ半分以下になったのか。これは後の教訓として知っておく必要がある。
私たちの運動は2014年からなので、運動の効果がじわじわと広がってきたのかな・・・と。うぬぼれがあるのでそこは割り引いてもらえばと思うが。戦争法という法律に反対する運動が国民的な広がりを持った。やはりあの状況の中で軍事研究におめおめと手を出すことはできないという雰囲気になった。
もう一つは私たちの仲間たちが特に地方で抗議運動をしたときに、地方紙とか地方版が報道してくれて、市民に伝わった。地方に住む人たちは地元の大学に誇りを持っている。その大学が軍事のための研究をやるのか、ということで様々な抗議が大学に伝わる。大学はそれを一番恐れた。特に私立大学は受験生が減ることを非常に恐れた。
つまり、ここで得た教訓は、市民が見ていることを知ると研究者は躊躇して応募しないということ。あるいは、社会的に反戦的雰囲気が非常に強いと応募しないということ。社会の情勢や市民の明らかな気持ちがきちんと伝わると、それでもやろうかというのはなかなか少ない。
2017年度は110億円に増やされて応募件数は104件と初年度並みになった。しかし、注目すべきなのは大学が22件に留まり、2016年度の23件からむしろ減った。日本学術会議の新声明が出たことの影響がある。様々な運動が広がって大学自身が大きく躊躇したのである。

軍産連携から「軍産学複合体」へ

しかし、これと全く対照的なのは企業の動きだ。企業はなんと55件に増え、全体の応募件数の半分以上を占めるようになった。つまり、武器輸出を前提とした企業の軍事開発に大きな力点が入るようになった。
2017年度には3000万円のもの以外にタイプSという5年間継続可能で最大20億円という大規模研究が設定された。このS型は6件も採用された。110億円中、10億円は3000万円クラスのA、B型だが、100億円はS型の大規模研究に分類されている。
大規模研究では企業は12件応募して4件採用された。企業が力点を置いてきて、防衛装備庁も企業に具体的に資金を振り向けようとしている。今まで採用されたのは、パナソニック、NEC、富士通、三菱重工、IHI、日立、東芝などいわゆる一流の大企業がずらりと入っている。こうした大企業が軍装備の開発研究に乗り出している。
私たちはこれを「軍産学複合体」への出発点と考えている。企業は武器生産、武器輸出を企業目的にしつつある。企業の表の顔と裏の顔だ。パナソニックなどの大手企業はテレビコマーシャルなどでいかにも日本の明るい未来を背負うなどと言いながら、裏の顔では死の商人になる道を一歩、二歩踏み出しつつある。
もう一点は産を軸にした軍と学の結びつきということが進みつつある。大学からの応募はまだ22大学もあるので安心できないが、一定程度の歯止めがかかっている状態だ。そうすると、防衛装備庁としてはまず軍と産を結びつける。これで産業界からの大口の応募を採用する。それともう一つは「産学共同」というのは今大学ではずっと進んでいる。軍からの金を産が受け取り、産からの金を大学に流す。そういう流れの中で「軍産学複合体」を形成していくという形がとられているのではないか。
もう一点、公的研究機関と呼ばれる研究開発法人、JAXA(宇宙航空研究開発機構)、物質・材料機構、情報通信機構、JAMSTEC(海洋研究開発機構)、理研などが国策機関になっていくという危険性もある。大学は歯止めがかかったが、公的研究機関からの応募は増えているからだ。

日本学術会議の50年ぶりの「軍事的安全保障研究に関する声明」

これらに対して、日本学術会議による50年ぶりの「軍事的安全保障研究に関する声明」が出た。「軍事的安全保障研究」とは軍事研究のこと。声明は50年、67年の声明を「継承」する、声明に込められた精神を受け継いでいくと冒頭に述べている。
それ以外に注意点として資金源はどこかを明確にする必要があると。それはどのような目的のための資金であるか、そして、公開性がきちんと担保されているか、これらのことを十分に注意して、押さえたうえで考えなければならないと。政府が研究に介入してくる恐れは十分あるよということを明確に主張して、こういう研究に携わらないようにと暗に述べている。

大学の態度

いろいろな大学で、行動規範や研究倫理、学長声明、理事会声明などが出され、現在、30大学以上が少なくとも今年度は応募しないことを宣言し、声明を出している。しかし、日本学術会議が明確に打ち出しているように、ちゃんとした倫理規範とか行動規範などの形で文章化することが非常に大事だ。
というのは、学長声明や理事会声明は学長などが変わるとコロッと、100%意見が変わる可能性だってあるからだ。今、国立大学では理事は全部学長の意向で決まる。学長の判断、リーダーシップで決まることが多い。だから、私たち自身は今後、十分学長の言動に注意したうえで大学に働きかける必要があると思う。

反対運動の課題

最後に、反対運動の課題を述べたい。はじめに、大学における軍事研究差し止めの要請を強めること。研究倫理綱領や行動規範などの規定制定の要請や、審査機関の設置・議論の公開の要請を行う。
そして、公的研究機関に対する働きかけ。これは非常に大変なのだが、考えているのは労働組合との結びつきを強めること。国交労連は3年にわたり大学に対して軍事研究に対してどうなのかというアンケートをとって、常にフォローしているので、連携していきたい。
日本学術会議の会長が10月から大西隆さんから山極寿一さんに代わった。山極さんは軍事研究に反対する姿勢で臨んでおられる。そして、日本学術会議にこの問題についての常設委員会を持つことも表明されている。私たちがこの委員会に対して意見を述べるとかフォーラムを開催させるなどして、日本学術会議が筋道を貫徹するための活動をしていく。
もう一つは市民との共同行動だ。やはり市民の意向や考え方は大学に敏感に反映するので、軍事研究に積極的な大学や研究機関には抗議活動を行う。それは当然ながら、このNAJATとも共同しつつ、武器開発は武器輸出につながるのだということを明確に打ち出していく。また、日本平和学会などと討論会などを共催していく。
以上、様々なことを予定しているが、とりあえず私たち自身が軍学共同反対連絡会を強化しながら、幅広く訴えていきたい。ここに集まられた皆さんともいろいろなところで共闘しながら、ともに戦いを進めていきたい、軍学共同反対の動きを強めていきたいと思う。

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【報告】亡国の武器輸出~日本版「軍産学複合体」の今 NAJAT 11.15集会

昨年11月15日に開催した「亡国の武器輸出~日本版「軍産学複合体」の今」、学習院大学大学院法務研究科教授、青井未帆さん(憲法学)と軍学共同反対連絡会共同代表の池内了さんにご講演いただきました。

青井さんの講演「9条改憲の動きと武器輸出三原則、それを取り戻す意義」を紹介します。
(池内さんの講演内容はこちら

1. 9条改憲の動き

 まだ今なら元に戻せる状況だ。「武器輸出三原則」を撤廃して「防衛装備移転三原則」に変えた手続きは国民の目を欺くもので正当性がない。「もう終わってしまったこと」「仕方がない」と言ってしまったら終わりだ。「9条のもとで私たちが作ってきた平和国家とはこんなものではない」と言えるかどうか、私たちに懸かっている。
 総選挙が終わり、9条改憲への雰囲気づくりが進んでいる。自民党の9条改憲のたたき台の条文はまだどうなるか分からない。もしかするとこんなに明確には書かれないかもしれない。「加憲」という形で憲法9条に書き加えるという改定が、緊急事態条項よりも先に行われると言われている。9条を前提としたうえでの加憲という方法には大きく分けて2つある。1つは「自衛隊」という言葉を入れないで、実力組織を何らかの形で認める方法。もう1つは「自衛隊」という言葉を入れる方法。自衛隊という言葉を入れる方が憲法的な観点から言えば、ずっと難しい。自衛隊という言葉を入れなければ、賛成する憲法研究者なども出てくるという気もする。だが、自衛隊という言葉が入ると、途端に理論的ハードルが高くなる。
 

9条の解釈と文化

 私たちが持ってきた9条、そのもとでの文化とはどういうものだったか。9条がある「だけ」で平和だったわけではない。9条をめぐる政府解釈は緻密だったと言われるのはなぜか。9条のもとで、軍隊を持つべきじゃない、あるいは武器輸出なんかしない方がいい、という国民の声があったからこそ、9条解釈はそれなりの緻密さを持たざるを得なかった。政府解釈や学説等の解釈が9条というコアの周りにある。そして、それを支えている国民の気持ちがある。
 9条は法の問題だが、完全に法の問題ではない点が重要だ。レジュメで「プロジェクト」という言い方をしているが、9条の文言や解釈、その下での複雑な法体系、そして国民の気持ち、これら全体を指している。軍か軍ではないか、装備や任務とかは他の国の軍隊と同じじゃないかとも指摘されているが、法の観点からすると完全に軍にはなれなかった。そこが重要ではないか。独特な法の仕組みを持つに至り、独特な運用もしてきた。9条の下にあるすべての部分をひっくるめて、この「プロジェクト」は私たちが作ってきた。9条はどういうもので、どうあるべきかについて、私たちが解釈してきたすべてを一体としてとらえるべきだ。

 

「戦争しない」ことへの攻撃

 では、この「プロジェクト」の「根底にある考え方とは何だったのか。「戦争しない」ということだったんじゃないのか。当たり前のように思えるかもしれないが、この部分が今、攻撃されている。戦争しない、国家のために殺さないし、殺させない、殺されないというところから出発していたのではないか。こういう価値観は当然、前の時代の「お国のため」「滅私奉公」「死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」ということを否定するところから出発したはずだ。「加憲」というのは「自衛隊」という言葉を書き込むだけに見えるが、長い目で見ると、この「戦争しない」という価値観をいつのまにか別の価値観で置き換えるということに他ならないはずだ。
 加憲したその瞬間に変わるという話ではないだろう。少しスパンがあるはずだ。2014年の政府解釈を維持する形で憲法「改正」するだろうから、加憲するとすぐに、1項や2項が骨抜きになってしまうというものではないだろう。中途半端な状態がしばらく続くだろう。9条の文言云々という小さな問題ではなく、何を大切に思うのかというレベルでの変更が、そうとは知らされずに行われようとしているのは、何があってもおかしいはずだ。

 

加憲なき無効化も

 具体的に9条が何を意味するのか、どう具体化してきたのかの一つの形として武器の禁輸政策があると考える。武器の禁輸政策を再考することは、加憲をするという議論が本格化する前の今ならば、戦争しないという価値観に大きく引きもどすことに繋がると主張したい。9条の文言が変わらなければいいのではないことに注意を払わなければならない。実際に相当変わってきている。法制の面でいうなら、やろうと思えば相当のことができるはずだ。加憲の試みが仮にうまくいかなくても、実質的にこれから先、大きく変わってしまう可能性がある。文言ではなく価値観が変わってしまうかどうかがポイントなのである。既成事実の積み上げにより実際の運用がどうなっていくかが重要であり、武器輸出のあり様を注目しなければ、仮に文言を守ったとしても、実態として無効化され、掘り崩されるのはあっという間なのかもしれない。
 

2. 武器輸出三原則

 

「モラル・ハイグラウンド」

 武器輸出三原則は9条のプロジェクトの一つだったと考えている。トランプ大統領が赤裸々にも示したように、他の国では、武器輸出は外交上のカードの一枚だ。これをあらかじめ捨てるということを通じて安全保障を図るという、他の国にはない手を打ってきた。だからこそそれは、高い道義性や高い倫理性を必要とする。単に外交戦略上のカードを持たないとするだけで私たちは平和国家をつくることが出来るのか。そこに一定の道義性、倫理性が補完的になければ無理なのではないか。「モラル・ハイグラウンド」と書いたが、まさに猪口邦子さんの言葉がその部分を言い当てている。猪口氏が小型武器軍縮会議の議長になったことを自分で振り返るに、「モラル・ハイグラウンド(道義的に高い位置)に日本が立っているから、議長国でも仕方がない」と思われたんじゃないかと主張されて、「ですから、国の重みはそういうところに出るんだなと思うのです」とおっしゃった(2004年5月13日、日本記者クラブ会報126号)。

 

道徳が支えた9条のプロジェクト

 国の重みとか「モラル・ハイグラウンド」というのは結構難しい話で、法や憲法の世界ではなるべくこういう道徳を取り込まない形で議論を作っていく作法がある。憲法の議論の中で道徳を簡単に持ち出すのは得策ではないし、私も避けてきた。でも、つらつらと考えるに、9条の問題はここの部分抜きには語れないんじゃないかと改めて思っている。あえて道徳的なるものを憲法9条の議論から放逐してしまうのは、一番9条を支えている部分を見ないふりをするに等しいのではないか。「モラル・ハイグラウンド」という言葉が適しているかは置くとしても、道徳的、道義的、倫理的なところの支えなくして、9条のプロジェクトは可能だったのだろうか、可能ではなかったのではないか。その意味で「国の重み」を支える部分に私たちがどこまでコミットするのかという問題ではないか。

 

三原則の曖昧な法的性格

 次に、レジュメに「武器輸出三原則の法的性格」と書いたが、結局それはよくわからないものだったということに注目したい。憲法に三原則は書かれていない。次に、外国為替及び外国貿易法(外為法)という、外国との貿易に関する基本的な法律にも書かれてなかった。それに基づく政令にもなかった。どこに書いてあるかというと別表の運用方針。別表そのものにも書いてなかった。
 憲法上の権利を制約するには、法律に拠らなければならないという大原則がある。「法律の留保」というが、ちょっと上の世代の方だとあまりいいイメージを持っておられないかもしれない。明治憲法のもとで、法律の範囲内でしか人権が保障されなかったというような内容に関して、「法律の留保」という言葉をよく使っていた。でもそれは、逆から見ると、人権を制約するには法律がなくちゃいけないという意味でもある。プラスの言葉とマイナスの言葉、意味が二つある。

憲法に近いルール

 人権を制約するには法律がなくちゃいけないという観点から見ると、もし武器を輸出する権利とか、武器輸出によって利益を得る権利とか、経済的自由の保障に入ってきそうな感じもするが、もしそういうものがあったとするならば、それは法律で制約しなくちゃいけないということになりそうだ。  
 でも、先に見たように、そういう議論はなされなかった。なぜか。少なくともこれまで作ってきた憲法9条のもとでの仕組みは、すごく9条と近いところに武器の禁輸という話を置いているので、輸出する権利がそもそもないと理解してきたとも言えるのではないか。もっとも、法律で制約しなくちゃいけないというところに少し鈍感だった面はもちろんあると思う。昔あった「監獄法」という法律が、監獄の中での喫煙の自由などを法律の根拠なく制約しているなど、鈍いところがあった。
 私としては、もし憲法上の権利として輸出する権利があると当然視されていたら、こんな形で武輸出三原則は存在していなかったろうと強調したいと思う。憲法にも、法律にも、政令にも書いてなく、別表の運用方針に過ぎないけれども、私たちは「国是」としてすごく重要だと考えてきた。翻って見ると、それは憲法と近いところにあるルールだと理解してきたからに他ならない。

 

三原則の「本籍」としての憲法

 実際のところ、武器輸出全面禁止の方針転換には極めて大きな政治的エネルギーが必要とされた。また、少しずつルールが変えられていった際も、少なくとも内閣としての意思決定(内閣官房長官談話)が必要だった。つまり、運用方針に過ぎないのだから勝手に変えられるもの、とは認識されていなかったことにも注意を払っておきたい。
 また、他ならぬ中曽根元首相も、アメリカへの武器技術供与をめぐって武器輸出三原則を緩和させるときに、「内閣法制局が憲法違反だの何だのと言っているが、ノウハウを教えてやるなら憲法違反にならないという私の解釈を教えてやった」、というようなことを自伝に書いている(『中曽根康弘が語る戦後日本外交』)。なるほど、憲法問題としてとらえていたんだと改めて知ることができる。中曽根元首相も憲法問題としてとらえ、内閣法制局もそういう問題として疑義があるとしていた点に注意を払いたい。
 つまり、平和国家としていかにあるべきかという私たちの選択が、三原則を憲法に近いものとして生んだからに他ならない。勝手に時の大臣が運用の指針として持ってきたというお話ではないはずだ。どこに議論の本籍があるのかといえば、憲法だった。偉い人の手柄話はどこまで本当かというのはわからないが、少なくとも憲法規範に近いものとして元首相らに認識されていただろうというのは、すごく重要だと思う。

3. それを取り戻す意義

 

民主党政権による一撃

 もしこのように憲法にすごく近いものとして存在しているならば、それをひっくり返すためにはそれ相応の手続きが必要だったはずだ。表立って議論されてひっくり返すならまだ分かる。しかし、武器輸出三原則がなぜなくなったのか、よく知らない人の方が多いはずだ。
 一番大きな転換は民主党政権の時に起こされた。「原則」と「例外」が逆転されてしまい、実質的に最終的な一撃に近かったが、ほとんど議論されていない。副大臣会合が年の押し迫った頃に行われたので、ほとんど国民に知らせないで行われてしまった。政策転換を正面突破するのではなく、気付かれない方法で少しずつ骨抜きにされていった。自民党政権だから、民主党政権だからということでは必ずしもないことに注意が必要だ。もっと深いレベルで変化が方向付けられていた。
 然るべき時間をかけて重要なことを正面から議論するといったことなく、多くの人に気づかれないところで変えてしまうという手法は、よく使われているが、正攻法ではない。本来は筋が通らないはずである。おかしいものはおかしいと言っていかなければいけない。こういう国民的議論と選択が飛ばされて、国会論戦もなかったことを忘れてはいけない。国会で議論しないというのが最近の大きな特徴だが、国会は言論の府であることに存在意義がある。国会論戦を経ることで、執行・運用における縛りを付けることができる点が重要だ。
 三原則の転換は、正面からの議論がなく、このことを正当性が与えられない理由として私たちは強調しなければならない。三原則は本籍が憲法に近いものとして存在しているなら、きちんとそれを論じるべきだったのに、しなかった。きちんと手続きを踏んでいないし、正当性が到底認められない。

正当性なき撤廃

 「国際紛争等を助長することを回避するという平和国家としての基本理念」という言葉が、これまで枕詞のようにずっと使われてきていたが、今日では「国連憲章を遵守するとの平和国家としての基本理念」という言い方にしかならなくなっている。国連憲章を遵守するというのは、他の国連加盟国と同じことだ。でも、それが日本の「平和国家」の基準だったのか。
 最近では、日米首脳会談で「アメリカから武器を購入すれば、日本はミサイルを撃ち落せる」というトランプ大統領の言葉に、「買います」という安倍首相の判断が呼応して、これから先、さらにビジネスとしての武器輸出が進んでいくであろうことを多くの人に予感させた。ちなみに、トランプ大統領のこの発言を報じる「ワシントンポスト」の記事で、「ロイヤルサイドキック(loyal sidekick)」という言葉が使われていた。日本の新聞だと「忠実な相棒」だったり、IWJさんだと「パシリ」という言葉を使われていたかと思う。「相棒」と「パシリ」では幅があるが、中を見ると「パシリ」に近いところで語られている。今日、モラルという側面が支えてきたと強調したが、ビジネスとして、さらには「ロイヤルサイドキック」を務めるというような国になってしまっていいのか。猪口氏の言葉にあった「国の重み」の意味に照らして考える必要がある。
 武器輸出三原則が憲法に近いものとして存在していた以上、それを変えるには正当性がなくてはいけない。正当性が認められるとは到底言えない。終わったことにはできないし、され得ない。私たちは承認したわけでない、おかしいということはまだまだ十分主張できる。